悪魔の吐きだめ

映画とかドラマとかの感想書いてます

6月に観たもの・読んだもの

ちょっと遅くなったけど6月に観たもの、読んだものについて。
まず個人的に6月はイベント的なトピックがいくつかあって、一つはサザンのライブだった。奇跡的に40周年ライブツアーの最終日のチケットが取れて、それも久々のライブだったから楽しみで、行ってやっぱり楽しかった。何より今回のセトリが素晴らしくて、40周年ということもありヒット曲で固めてくるかと思いきやかなりコアな選曲度肝をぬかれた。序盤でいきなり「希望の轍」を持ってきて観客を驚かせての、中盤の「女神達への情歌(報道されないY型の彼方へ)」や「HAIR」にかけてのドーム全体に漂う異様さ、歪さたるやそれはそれは凄まじい雰囲気で、そして同時にそれが無茶苦茶カッコよかったのだった。40年経ってもこうやって観客を挑発し続ける桑田佳祐はさすがだなぁと感心する。

わすれじのレイド・バック

わすれじのレイド・バック

 
女神達への情歌(報道されないY型の彼方へ)

女神達への情歌(報道されないY型の彼方へ)

 


もう一つのイベントはラース・フォン・トリアーの新作が公開されたこと。「ハウス・ジャック・ビルト」である。

桑田佳祐と同じくベテランとなったいまでも観客を挑発するのはトリアーも同様で、特に新作では“コメディ”の方向に抜群にトンがってて最高。それだけでなく、サスペンスからホラーまでジャンルを横断して展開する様に、この人マトモに撮ればもっと見直されるのになぁと思いつつも、マトモじゃないからトリアーの映画は面白いからなと自己解決してしまった。


また、ドラマについてはライアン・マーフィーづくしの1ヶ月で、「アメリカン・ホラー・ストーリー シーズン8 Apocalypse(邦題:黙示録)」、「アメリカン・クライム・ストーリー: ヴェルサーチ事件」、「POSE」を観ていた。

アメホラはやっぱり初期の頃に比べてもツイストが弱くて正直ダレる話が多かったのだが、一番アガッたのがシーズン1の舞台である“マーダーハウス”が再登場、そしてジェシカ・ラングが再登板した回だった。ラングはアメホラのレギュラーから離れて4年以上になるがそのブランクを感じさせない風格だった。毎回同じキャストがシーズン毎に別の役を演じるアメホラだが、初期シーズンは座長として(シーズン4ではまさにサーカスの座長役だったが)ラングはドラマを牽引していた。もちろん初期から変わらずに続投しているサラ・ポールソンの演技力も高いのだが、可憐な見た目のせいか被害者の役が多くて、ラングのようなドスを利かせた役柄はいまだできない状況である。そんなアメホラも次回はサブタイトルを「1984」と銘打って、流行りの80s懐古主義に便乗する。出遅れ感も否めないがアメホラらしさを取り入れて他とどう差をつけるかが楽しみだ。

ヴェルサーチ」は、97年に起きたジャンニ・ヴェルサーチ殺害事件を基にしたドラマで、アメクラ(アメホラと似ていてややこしい)シーズン1ではOJシンプソン事件を扱っていたが未見だった。特に前季との繋がりもないのでこっちから観始めたのだが犯罪実録モノとしてすごく面白かった。全9話あってこの事件だけでそんなに話を持たせられるのかと疑問だったが、アメホラと比較してもダレることなく一定の緊張感を保っていた。特に今回俳優のマット・ボマーの監督回の第8話の演出が秀逸で、子供の後ろで親が暴力を振るわれているのを敢えてピントを外して子供目線として描くなど、捻った演出に素直に驚いてしまった。

実は先に述べた「アメホラ8」のs1回帰回もサラ・ポールソン監督回で、初期メンと自らの出世作となったドラマへの深い愛情をもったエピソードで、入れ替わり立ち替わり現れるキャストの見せ方も優れていた。ライアン・マーフィーはTV界のジャド・アパトウになりつつあるのかもしれない。
ちなみに「アメホラ」、「アメクラ」、「POSE」は同じマーフィー作品ながら三者三様で、「POSE」は中でも苦手な類のマーフィー作品で二話目あたりで挫折してしまった。


今月読んだ本は、「漱石全集を買った日」という本で京都の古本屋店主とその客との対談形式になっているもの。古本の魅力について、あれがいいよね、ここがいいよねと語り合う様子がすごく面白くて、読み終えた頃には完全に影響されてしまってその後休日に古本屋を巡ったりした。

漱石全集を買った日―古書店主とお客さんによる古本入門

漱石全集を買った日―古書店主とお客さんによる古本入門

 

店主の山本さんが関西弁でガツガツ話す一方で、お客側の清水さんの冷静な語り口が対照的で、2人の会話だけでも楽しめる。驚くのは2人の読書量というか記憶力で、本の名前を出せば、あの一節がね、と話が即座に出てくるところで、こんな風に本について語れるってなんだか羨ましくなった。

5月に観たもの・読んだもの

4月に「アベンジャーズ」、5月に「ゲーム・オブ・スローンズ」というゼロ年代を代表する二大エンターテイメント作品が終わり、まさに盆と正月が一緒に来たってこのことだなと思った。GoTの感想についての記事は以下に書いた。

ただ、終えて今思うのは、あまり「ゲーム・オブ・スローンズ」ロスというのも起きていないような気がするし、思えば今作はシーズン6あたりで既にピークを迎えていたようにも感じる。とはいえ最後のお祭りにリアルタイムで参加できたし、頑張って追いついておいて良かった。


また、今月はNetflixの新しい「一話15分枠」コメディドラマシリーズ2作品が特に面白かった。これまでのコメディドラマといえば30分枠が一般的であったから新鮮だったし、何より15分という短さながらきっちり起承転結がある点も凄い。一つ目は、SM嬢のバイトをする大学院生とそれを手伝う友人のゲイの青年を描いた「ボンディング」。設定からしてイロモノ系かと思いきや、主人公2人の経緯やら、それが若者特有の居場所のなさだったり、他人の性癖で自らの弱点を克服するきっかけになったりと落とし所が見事。
もう一つは「ブルックで、ブルーノと!」。その名の通りニューヨークのブルックリンで愛犬ブルーノ(パグとビーグルの合いの子のパグル)と暮らす半ニートみたいな主人公の日常を描いたコメディで、Twitterにも書いたが最初はなんとなく観始めたらこれがすごい面白かった。

主演・監督・脚本・ショーランナーを務めるのはソルヴァン“スリック”ナイーム。この辺も“ミレニアム世代コメディ”のアジズ・アンサリ、ドナルド・グローバーとも同じだ。ソルヴァンについては初めて聞く名前だったが、バズ・ラーマンの「ゲット・ダウン」のセカンドディレクターやFXの「スノーフォール」のエピソード監督を務めていたらしい。どことなく彼の雰囲気や声がアダム・ドライバーに似ていて、ニューヨークという場所柄もあってか観ている間は「GIRLS」を思い出すことも何度かあった。とはいえ「ブルーノ」はスラップスティック系のコメディだし、ソルヴァン演じるキャラクターの自己中(というより犬中だが)っぷりはアダムというよりハンナのようである。そんなのありえないだろ!っていう展開の中にもさらっと移民問題を入れてくるところもなかなかやり手。日常の中のシュールな出来事を切り取る、アジズ、ドナルドに続く新生“ミレニアム・クリエイター”として今後に期待したい。

今月Amazonから配信された「フリーバッグ」のシーズン2も凄かった。いや、凄すぎた。尖った笑いももちろんだが、カメラに向かって視聴者に投げかける目線は、いつしか共犯者感覚となりギョッとしてしまう。今作については別の機会でいつか書きたいと思う。


今月読んだ本は、ウィリー・ヴローティン著「荒野にて」。

荒野にて

荒野にて

 

もちろんアンドリュー・ヘイ監督作の原作である。映画の感想は以下。


サブキャラクターの設定や性別に多少の違いはあれど、物語の展開はほとんど映画と同じなので驚いた。また、主人公の15歳の少年チャーリーは原作ではキャラクター性があまり無い。無いというか「器」のような描かれ方をしていて、あらゆる状況、酸いも甘いも全てを吸収してしまう無垢な存在だということが強く描かれている。映画を観ている時にも思い出したが、この辺がアンドレ・アーノルド監督の「アメリカン・ハニー」ともすごく近い。

と思っていたら、アンドリュー・ヘイのインタビューで今作について言及されていた。

『荒野にて』アンドリュー・ヘイ監督が語る、悪しきアメリカの自己責任論 - i-D

ヘイもアーノルドもイギリス人で、確かに外側から見た「アメリカ」のもつアメリカ故の残酷さ、粗雑さの面が描かれていたと思う。それでいえばラース・フォン・トリアーの「ドッグヴィル」の最後にデヴィッド・ボウイの「Young Americans」が使われていたし、選曲の妙といい心底ゾッとしたのを思い出した。

 

アメリカ」繋がりでいうと月末に観た映画で「アメリカン・アニマルズ」があった。

やっぱり、タイトルに「アメリカ」が付く作品は、どれも皮肉的というか、“彼を(俺を)こうさせたのは社会(アメリカ)がいけない”というような形容詞的な使われ方をしている。それをずるいと思う反面、やっぱり「アメリカ」って「アメリカ」なんだなぁと日本人ながら思ってしまうのだった。

アメリカン・スプレンダー

アメリカン・スプレンダー

 

 

長い戦いを終えて〜「ゲーム・オブ・スローンズ」は一体何がスゴかったのか

ゲーム・オブ・スローンズ」が終わった。世界中が固唾をのんで見守り続けた玉座を巡る争いを描いた「TVドラマ」が終わったのだ。「アベンジャーズ」と並んで熱狂的なファンダム(熱心なファンで作り上げられた文化)を持つこのドラマシリーズは一体何が凄かったのか?前置きすると、僕自身決してコアなファンではないし、何なら一度シーズン1で挫折すらしている。そんなニワカウォッチャーの僕ですら結局ハマってしまった今作の面白さと、ファイナルシーズンの盛り上がりについて書きたいと思う。
※具体的なネタバレは避けているものの、これから観る予定で一切情報を入れたくない方は、以下Spoiler Alertってことでスルーいただきたい。

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まず、「ゲーム・オブ・スローンズ」(以下、GoT)が本国で放送を開始したのは2011年で、僕が観始めたのは日本で放送開始した2013年頃だったと思う。第1話から壮大な世界観に圧倒されつつも、話の本筋が掴めず休み休み進めてようやくシーズン1を観終えたあたりでそれ以降進めるのをやめてしまっていた。そこから何年もブランクが空いて再開したのはわりと最近になってからだ。
なぜ一度挫折したドラマを再開しようと思ったのか。それは気がつくと世の中のエンターテイメントにGoTが欠かせない存在になっていたからだった。ちょっと大袈裟かもしれないが、本当に世界的な熱狂が半端なく、TwitterにはキャラクターのMemeやGIFで溢れ、近年の映画やドラマを観ていても、そこかしこにGoTのネタが言及されまくる。気がつくと「ゲーム・オブ・スローンズ」は一種の“記号”と化していたのだ。エンターテイメントの裏にGoTが存在している様子は、アメリカ映画やドラマの背景に、キリスト教と聖書が強く根付いていることと似ていて、その状況を知らないままでやり過ごしていることに妙な焦りや孤立感を感じるようになったのだ。


このままでは置いてかれてしまうと今更ながら焦り、再び観始めていった中で、このドラマにハマりだしたキッカケとなったエピソードがシーズン3の第9話「The Rains of Castamere」だった。一言で言うとまさに“度肝を抜かれた”エピソードだった。信じて応援して追ってきていたキャラクターたちは見るも無惨に次々と殺され、無慈悲にも息子を目の前で亡くした母の絶叫で終わる(そしてその直後に母も殺される)。このエピソードが海外では既に“Red Wedding”として有名だと知ったのは後のことで、全く事前情報を知らずに通勤電車で観ていた僕は最寄りの駅に着いた後もホームで立ち尽くしてしまった。それは「絶望」というより「ここまでやるのか!」という興奮で呆然としてしまったからだった。このドラマはただモンじゃないぞ、とここから一気にハマりだした。


ただ、逆にいうとここまで来ないとハマらないのかと思われそうだが、これは人によってこのドラマの楽しみ方が異なるため何を目的でこのドラマを楽しむか、によって大きく個人差があるのだと思う。(僕にとってはこのようにドラマのセオリーをぶち壊してくれる面白さに気がついてからだった)
冒頭にも書いたが、僕同様に最初に放棄してしまう人は今作の掴み所が分からないため、という人が多い気がする。いや、ゴールは至極シンプルで「誰が七王国の王になるのか」というだけである。ではなぜここまで取っ付きにくくなるかと言えば、理由の一つに登場人物の多さがあるだろう。一つのエピソードの中で並行して各キャラクターのそれぞれのストーリーが進むため、最初のうちは、あれがこうなって、誰が誰と、と追うだけで頭が追いつかない。そしてそれ故にこのドラマが他のドラマと大きく異なるのは、ドラマ自体が複数の“サブプロット”で成り立っているという点だ。


先にも述べた、阿鼻叫喚の地獄エピソードとして悪名高い「The Rains of Castamere」の他にも、シーズン6第9話「Battle of the Bastards」などのここまでやるか(やれるのか)というテレビドラマのバジェットや演出面も含めて大きく水準を底上げしたエピソードは数あれど、言ってしまえばいずれも一(イチ)キャラクターを通して描いたサブプロットでしかないのだ。それぞれが一本のドラマとして十分成立するレベルのクオリティのサブプロットの集合体がこの「ゲーム・オブ・スローンズ」という大きなドラマを作り上げているのだと思う。


そう言った意味で捉えると、GoTが本領発揮するのは、そのサブプロット同士が「玉座」という一つの到達点に集約していく終盤にかけてだ。そのため、ファイナルシーズンが世界的な盛り上がりを見せたのも、単にドラマが終わるから、という意味合いだけではなかったと思われる。今までバラバラだった物語とキャラクターが一堂に会して、ゴールへと繋がっていく快感は、なるほど過去7年に渡ってサブプロットを描き続け、それを堪え忍んできたウォッチャーだけしか得られない「GoT」が作り上げた視聴体験だったと思う。


さて、そんな熱狂的に迎えられた最終シーズンだったが、蓋を開けてみると意外なことにファンから叩かれまくってしまった。終いにはファンによる作り直しを求める署名活動まで始まる程だった。確かに個人的にも展開に疑問も持つ点もいくつかあったが、何よりこのファイナルシーズンでようやくサブプロットではなく一つのドラマとして動き出した途端に、これまで保っていた今作のテンポが失速していったのは認めざるを得ないし、それが残念でもあった。ただ、ファイナルシーズンが失敗に終わったのかというと個人的は全くそんなことは無かったと思う。
なぜなら賛否を巻き起こした第5話「The Bells」で今作の作り手たちはさらなる挑戦に挑んでいたからだ。これまで主要人物たちが次々と殺され、それをTV越しに楽しんでいた視聴者を真正面からブン殴るようなエピソードだったのだ。罪なき人々の断末魔が響き渡る瞬間を目にした時、そこには「ドラマ」というフィクションの持ち得る“面白さ”は皆無だった。「ゲーム・オブ・スローンズ」が描いていたのは単なる“エンターテイメント”ではない、“戦争”である、とここで視聴者に突きつけた。本作のクリエイターたちはきっとGoTを「面白いTVドラマだったね!ちゃんちゃん!」で終わらせたくなかったのではないか。


最後まで視聴者に喧嘩を売り続け、賛否渦巻く中GoTは幕を閉じた。いずれにせよ、ネットで瞬く間に拡散される感想含めて、すごい時代にすごいドラマが終わったこと、これはこの先も語り継がれるイベントだったと思う。
ゲーム・オブ・スローンズ」が紹介される時、よく「映画並みのクオリティのTVドラマ」だったり、「一話に映画一本分の予算をかけている」など映画と比較されて語られることが多い。しかし、今作がここまで熱狂的な盛り上がりをみせたのは「映画」だったからではなく「TV」だったからだ。まるでスポーツ観戦するかのように、お茶の間やバーのTVを通して、世界中が同じ瞬間を目撃し、その感想がリアルタイムに拡散されることで、より熱狂的な一体感を生み出した。
最終話でのティリオンの言葉を借りれば、人々を繋げるのは、いつの時代も“物語”(TVドラマ)であることを「ゲーム・オブ・スローンズ」は証明したのだ。

「荒野にて」居場所を求める少年と馬の物語

アンドリュー・ヘイ監督の新作「荒野にて」が本当に素晴らしかった。

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監督のアンドリュー・ヘイについては、HBO製作のゲイドラマ「Looking」でその名を知った。今作ではマイノリティの疎外感だけでなく、そのコミュニティ内でもあるゲイ同士の微妙な距離感の違いによる孤独を細やかに描いており、いわゆる“マイノリティ”を描いたドラマとは一線を画したドラマとしての新しさにとても感動したのを覚えている。
その後に観たのがシャーロット・ランプリング主演の「さざなみ」だった。長年連れ添った老夫婦が些細な事件をきっかけに心が離れていく様子が描かれているのだが、関係が崩れていく様を丁寧に且つホラーな演出で構成しており、その手腕に驚かされた。

そして続く今作が「荒野にて」だ。原題は“Lean on Pete”、直訳すると“ピートに頼る”となるが、この“リーン・オン・ピート”とは主人公の少年が心を通わせる馬の名前だ。
15歳の少年チャーリーは父と二人暮らし。彼にとっては良い父親なのだが女に弱く、それが原因で大怪我を負った父親は入院することとなる。食べていく金もないチャーリーは、稼ぐために競馬場で働くことになり、そこで弱った競走馬の“リーン・オン・ピート”に出会う。

この映画で描かれるのは、無垢な少年が様々な人々と出会い“人生”を知る物語だ。
父の不在という現実から逃げ出したチャーリーは、競馬場で働くデルとボニーという二人の人物と出会う。二人ともかつては馬に愛情を持って接していたが、暮らしのために今はその心を失ってしまっている。勝てなくなった馬は殺処分するという決断もせざるを得ない。それを目の当たりにしたチャーリーは再び逃げだす。ピートを連れて。

オレゴン州ポートランドから叔母の住むアイオワ州を目指すという荒唐無稽な旅なのだが、その道中も決して彼はピートには跨ることはない。それは走ることができなくなり、疎まれる存在となったピートにチャーリーは自らを重ね合わせているからだ。居場所のない二人は歩き続けることを選ぶ。

ただ、自らの人生に居場所がないと感じているのは彼らだけではない。旅の途中で出会う人々も皆自らの人生に妥協しながら生きている様子がわかる。例えばチャーリーの出会う太った女は祖父から体型について嫌味を言われ続けている。「どうしてこの家を出ないの?」と聞くチャーリーに対し、彼女は「だって他に行く場所がないから」と答える。そうした人々と出会うことで誰もが自分の居場所を探しており、それに諦めてもいることをチャーリーは知ることとなる。

だが彼が知るのはそれだけではない。チャーリーを行く先々で待ち受けるのは厳しい現実だった。その過酷さに打ちひしがれて逃げ出してしまう。それが自分の行いのせいだと強く自らを責めてボロボロになりながらも彼は自分の居場所を求めて進んでいく。彼にはそうするしかないからだ。それはこの世界に(それがどんな形であっても)“居場所”を探し続ける人にとっては強く共感できる姿であるはずだ。

そんな彼が辿り着いたラストで流れるボニー・プリンス・ビリーの“The World Greatest”ではこのような歌詞が歌われる。

誰かが僕について尋ねたらその人を見つめてこう答えるよ

僕は高くそびえる山、僕は空に輝く星だ

やったよ、僕は世界で一番偉大になったんだ

窮地に陥ったとしても微かな希望がある

だって僕は世界一偉大になったと感じるから

この曲を背景に彼の見つめる眼差しの先にあるものは、きっと観る人によって違う捉え方ができるだろう。それはアンドリュー・ヘイが用意した、チャーリーと同じく人生を模索する僕らに対しての優しさであり、厳しさに違いない。

「After Life/アフター・ライフ」リッキー・ジャーヴェイスが描く人生の悲哀とアイロニー

まず、リッキー・ジャーヴェイスという名前を聞いて、かつてのゴールデングローブ賞の授賞式の司会を思い出す人も多いかもしれない。当時興行的にも失敗し評価もイマイチだったサスペンス映画「ツーリスト」がなんとコメディ部門にノミネートされてしまったことをキッカケに、当時の司会だったジャーヴェイスはこれをネタに言いたい放題。「授賞式に主役のジョニデとアンジーを呼びたいから無理矢理ノミネートした」云々から始まり、その当時にスキャンダルされていた「協会はスタジオから賄賂を貰っている」発言までタブーに踏み込むジョークを連発。その後もポール・マッカートニーからメル・ギブソンまでとにかく大御所相手にも誰もがタブーと思う話を怯みもせずにジョークにして飛ばしまくる。

そんな彼の作るドラマも一見すると尖った刃のように鋭い笑いを孕みながら、その裏では実は人生の悲哀を描いた物語だったりする。

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ジャーヴェイスを一躍有名にしたドラマといえば、盟友のスティーヴン・マーチャントと共に自ら監督脚本を務めた「The Office」だ。英国の小さな印刷会社に密着したドキュメンタリー風(モキュメンタリー)ドラマで、ジャーヴェイスはそこで部下から冷たくされる(でも本人は気がついていない)イタい上司デヴィッド・ブレントを演じていた。とにかくやる事なす事すべて空回り、空気を読まずにセクハラや人種差別バリバリのジョークを本人は面白いと思って連発するもスベりまくる。その一方で周りから疎まれる彼自身の孤独も描かれているためいつの間にか視聴者は共感してしまうのだ。

続く2作目のドラマ「エキストラ」では、ジャーヴェイスはタイトル通り、有名な映画俳優になることを夢見るエキストラ役に扮し、自分の思いとは裏腹にコメディ役者として売れてしまう人生の歯痒さを描いていた。

いずれの作品でも、予定調和にいかない人生とそれにどう折り合いをつけていくかということが物語の核となっていた。

そして、今回新作の「After Life/アフター・ライフ」である。主人公のトニーは妻を亡くしてから生きる意味を見失ってしまう。自暴自棄となった彼は、周囲の心配をよそに誰彼構わず毒を吐きまくる。誰が相手でも遠慮のない発言で周囲を困らせるそんな彼だったが、徐々に妻のいない人生(アフターライフ)に意味を見出そうと心を変えていく。

正直言えば、これまでのジャーヴェイスのドラマに比べるとキャラクターの描かれ方も話の展開も単純かつストレートで面白みに欠ける印象もある。ただ、ジャーヴェイス自身もカドが取れたというか、ため息ひとつする演技だけで哀愁を感じさせるし、誰を相手にしても毒を吐くトニーは、ステージ上で毒を吐きまくるジャーヴェイス自身の姿と重なる。でも実はその裏では、思い通りにいかない皮肉な人生に満ちているという対比に観ている側は心を打たれてしまう。

「喜劇と悲劇は紙一重」というけれど、まさにジャーヴェイスの描く作品はその言葉通りで、“可笑しい”から“哀しい”し、“哀しい”から“可笑しい”のだ。そしてそれが「人生」なんだと説く彼は“現代のシェイクスピア”なのかもしれない。

「マイ・ブックショップ」小さな書店と厳しい現実

大人になってから本を多く読むようになった。何かきっかけがあったわけでは無かったと思うけど今まで触れてこなかったジャンルも含めて読み漁りはじめた。それがきっかけで今も本屋、それこそ大型書店から小さい古本屋まで、見かけるとつい立ち寄ったりしている。そんな中で最近知ったのが「一箱古本市」というもので、そこでは個人がそれぞれ持ち寄ったダンボール一箱分程度の古本を売ることからこの名前がついている。ただ、他のフリーマーケット等と異なるのが、自分たちが持ち寄った本、つまり思い入れがあり他の人にも読んで欲しいと思う本を箱に詰めて持ち寄っている点である。だからその本を手に取って眺めていると、売り手の人たちが「この本はねココが面白いんだよ」などと言って楽しそうに話しかけてくる。一箱とは言え彼らにとってはそこが小さな“書店”であり、その店主であるのだ。

前置きが長くなったが、今作の「マイ・ブックショップ」を観ていてその“小さな書店”の持つ温かさを思い出した。

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エミリー・モーティマー演じる主人公のフローレンスは亡き夫との夢であった書店を小さな田舎町で開く決意をするところから映画は始まる。本を愛する彼女は店頭に本を並べながら、時にはその並べた本を手に取り読書に耽りながら店を作り上げていく描写がとても美しい。彼女がそっと本を手に取り、ふふふと目尻に皺を寄せて微笑む姿に、ああ本当にこの人は本が好きなんだな、と感じてしまう。

本を通して人々交流が深まる様子が描かれる点も今作の魅力で、フローレンスは家に引き篭もる老人(ビル・ナイ)に自分の知らない面白い本を届けて欲しいという依頼を受けて本(レイ・ブラッドベリの「華氏451」)を届けたり、アルバイトとして雇った(なのに読書嫌いな)少女クリスティーンに「本は好きじゃなくても構わないけど、この本だけは読んで欲しい」と「ジャマイカの烈風」を渡したり。そんな風に一冊の本を人に勧めて交流が深まっていくって素敵じゃないですか。

でもそんな本を通しての微笑ましいやり取りだけでこの映画は終わらない。本屋を営む彼女はそれを快く思わない町の住民から嫌がらせを受け始めるのだ。その主犯格とも言うべき富豪のガマート夫人を演じるのが、パトリシア・クラークソン。彼女はHBOのTVシリーズ「シャープ・オブジェクト」でも小さな田舎町の地主を憎々しげに演じていたがその嫌らしさは今作でも同様。フローレンスの書店を潰そうとあの手この手で攻撃してくる。

そして驚くのが、彼女の決断、迎える事の顛末のなんともビターな味わいである。それはラース・フォン・トリアーの「奇跡の海」とかなり近いものがある。同じ小さな港町が舞台という点が似ているのもあるのだが、それ以上に「奇跡の海」のベスと今作のフローレンスに同じ信念を持つ女性としての共通点を感じる。(もちろん「奇跡の海」の方が遥かにハードな内容であるのは確かだけど)

自分の行動が正しいと信じて貫き通すヒロインと、それを疎ましく目障りに思う周囲。その対比と彼女の決断に深く心が動かされる。そして、彼女が現実に負けてしまったとしても、それが何処かで実を結ぶラストがとても美しいのだ。

ちなみに今作を観た後、映画に出てきた本が読みたいと思って銀座の蔦屋書店に立ち寄った。丁度「マイ・ブックショップ」のフェアを開催していたこともあって、絶版となっている「ジャマイカの烈風」をそこで買えて満足した一方で、フローレンスがこのスターバックスが併設された巨大な店を訪れたらどんな気持ちになるだろうと思ったりもした。

ポール・フェイグが放つブラックなガールズコメディ「シンプル・フェイバー 」

アナ・ケンドリックブレイク・ライヴリー主演の「シンプル・フェイバー 」は、突然失踪したママ友をブロガーママが追ううちに驚きの真相が判明するというサスペンスミステリー。として謳われていたが、実際観てみるとこれがコメディだったから更に驚いた。

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それもそのはずで、監督はポール・フェイグ。「ブライズメイズ」でヒットを飛ばし、その後メリッサ・マッカーシーとコンビを組んだ「デンジャラス・バディ」、「SPY」や、全員女性キャストで挑んで話題となった「ゴーストバスターズ」などガールズコメディを得意とする監督だからだ。


フェイグ自身今作ではヒッチコック風のサスペンスを目指したらしく、失踪事件に迫るあたりはピリついた緊張感とフェイグらしくないセックスと血の臭いが充満している。かと思いきや後半のある瞬間からトンデモコメディへと転調。やっぱりポール・フェイグはこうでなくちゃ、となってしまうのだから可笑しい。

暮石の上でマティーニで乾杯するなど、周りにバレたらどうすんだ的なシーンもあるものの、ビジュアル優先として観れば最高にイカしていて、しかもその時点では映画は完全にコメディに成り代わってしまっているのだから演出として上手いなぁと唸ってしまう。


そしてすったんもんだあった末、エンドロールで流れるのがNo Small Childrenの歌う“Laisse Tomber Les Filles”。この曲の英語カバー“Chick Habit”がタランティーノの「デス・プルーフ」のエンドロールでも使われていたことを思い出す。あの作品も強烈な女子の“踵落とし”で終わっていたことを思うとなかなか粋な選曲である。


今回のキャスティングも良くて、アナ・ケンドリックはどことなく鼻に付く優等生キャラのイメージが強くて好きじゃなかったけど、その嫌味な持ち味が遺憾なく発揮されていた。対するブレイク・ライヴリーもスーツに身を纏い髑髏の杖をついて登場するなど全身でbit*hキャラを演じていて超カッコいい。恐らく演じていても楽しかっただろうなと思う。

脇役ではアンドリュー・ラネルズも黒一点でお笑い役に回っていて好印象。「GIRLS」の時もそうだったけど女子のドラマに華を添える存在として良い立ち位置である。リンダ・カーデリーニも「グリーンブック」の良妻役とは真逆のスカしたキャラでナイス。後から気がついたけど彼女実はポール・フェイグとは「フリークス学園」以来のタッグじゃないか。そういう意味でも今回の出演は感慨深い。


これは余談だけど、ジャン=マルク・ヴァレが監督したTVシリーズ「ビッグ・リトル・ライズ」も同じく主婦が主役のサスペンスメロドラマだったが、ヴァレの得意とするフラッシュバックやカットバックの演出を多用して単純なソープモノで終わらず、見応えあるソリッドでスタイリッシュなドラマになっていて素晴らしい出来だった。対して今作「シンプル・フェイバー」も似たテーマながらやはりポール・フェイグらしさが遺憾なく発揮されていて、当たり前だけど監督次第でこんなにもテイストは違うんだなぁと思ったり。フェイグが撮った「ビッグ・リトル・ライズ」、ヴァレが撮った「シンプル・フェイバー 」も面白いだろうなぁと考えてしまった。