悪魔の吐きだめ

映画とかドラマとかのことを書いてます。

「ファイティング・ファミリー」スティーヴン・マーチャントが描いた“諦めた者”についての物語

最近、講談師の神田松之丞がパーソナリティを務めるラジオ「問わず語りの松之丞」をよく聴いている。その中で神田松之丞が「しゃべくりセブン」に出演した際にくりぃむしちゅーの「上田晋也一代記」を行おうとしたが結局やらなかった、という話があった。理由は「人生がつまらなすぎたから」と言っていて、あまりの言い草に聴きながら一人で声を出して笑ってしまった。もちろん芸能人なんだから“つまらない”ということは無いのだろうが、取り立ててネタにできるようなものが何も無かった、ということからだった。ただ、くりぃむの上田ですら人生に「何も無い」のであれば、普通の人の人生はどうなのだろうと思ってしまう。


ティーヴン・マーチャントが監督した「ファイティング・ファミリー」は、女子プロレス界の元女王ペイジがWWEに採用されるまでを描いた実話を基にした物語である。話だけ見れば「ロッキー」フォロワーのサクセスストーリーかと思いきや、“自分の夢を諦めることになった者”、“なりたい自分になりたくてもなれない者”についての映画なのだ。

f:id:delorean88:20191201220021j:image
イギリスの田舎町で暮らすペイジは、兄のザックや両親とともに家族ぐるみでプロレス巡業で生計を立てており、一攫千金を夢見て兄妹で世界的に有名なプロレス団体WWEのオーディションを受験する。しかしそのオーディションに合格したのはペイジだけ。妹の前では気丈に振る舞うザックだったが、裏では悔しさを滲ませる。なぜこんなに努力しているのに認められないのか。オーディションを何度受けても合格せず、子供も産まれ父となったザックは夢からどんどん遠のいていく。故郷に久々に戻ってきたペイジに対して冷たく当たるザックは「なんで俺じゃなくてお前なんだ!」と強く怒りをぶつける。それに対して思わずペイジはこう返してしまう。「あんたには何も無いからよ!」と。


ティーヴン・マーチャントは以前からこうした陰にいる人物の物語を描いてきた。マーチャントが有名になったのはリッキー・ジャーヴェイスと組んで監督・脚本を務めた「ジ・オフィス」である。イギリスの片田舎にある小さな印刷会社内の日常をドキュメンタリータッチで描いたコメディドラマなのだが、その中には自分が部下から慕われていると勘違いする上司、自分はこんな小さな会社で働くべきじゃないと思いながらもズルズルと辞められないで仕事を続ける社員など、思わず誰もが自分と重ね合わせてしまうようなキャラクターとその末路が可笑しくもありながら哀愁たっぷりに描かれ、いまだに語り継がれるカルトクラシックとなった。

さらにその後マーチャントとジャーヴェイスが再タッグを組んだ「エキストラ」では、前作以上に“なりたい夢を諦めること”について描かれていた。エキストラから有名俳優を目指していたはずが、いつしか一発屋芸人になってしまっていた主人公を巡る悲喜劇である。

いずれの作品でも、主人公は気がついた頃にはもう夢からかけ離れたところにいて、もうどう足掻いても夢には辿り着けないのだ。でも、その中でも、そのどん底の生活からも、生きる希望を見つけて、自分なりの人生を見つけ出す。これがマーチャント(とジャーヴェイス)が一貫して描いてきた物語なのだ。


努力していた人間が、自分は物語の主役ではないと認めることは、栄光を掴むより大変なのではないかと思う。「つまらない」「何も無い」という言葉の破壊力は凄まじく、言われた者に殴りかかる。大半の人の人生なんて側から見れば「つまらない」はずだ。でもその中で懸命に生きてやりがいを見つけた人にとっては「何も無い」なんて無い。そうマーチャントは今回の映画でも描いている。