悪魔の吐きだめ

映画とかドラマとかのことを書いてます。

ヨルゴス・ランティモスの描く唯一無二の世界「アルプス」

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思い返してみて登場人物たちが一人として涙を溢していただろうか、と思ってしまう。
唯一涙を溢していたとしたら、目薬を差されていた主人公の父親だろう。それも強引に、だ。


「アルプス」の名付けられたグループは、突然家族を亡くした遺族に故人に成り代わって悲しみをケアしている。いや、ケアなのかどうかすら怪しい。彼らがこういった成り代わりを行う目的は明らかにされないからだ。
そこに所属する看護師の主人公が「アルプス」のメンバーに黙って勝手に故人の成り代わりを始めたことから起きる顛末が描かれる。


その故人に成り代わる演技も下手だし、故人の口癖すらも棒読み。“演じさせられている”という感じが強く、それに対する遺族も懐かしんだり、悲しんだりということもない。ただ、“演じる者”と“それを観る(見るではなく)者”の不安定な関係性だけが映し出されるのである。
そこにあるのは、誰かに真似事をしないと生きていけないというアイデンティティの欠如とも思える。


ヨルゴス・ランティモスの描く作品のキャラクターは一貫して「映画」という書き割りの中である種の「ルール」を課せられていて、その中で行動すること、感情を出すことを機械的に“強いられている”(ように観ている側は感じる)。「籠の中の乙女」や「ロブスター」、「聖なる鹿殺し」のいずれの作品でも、主人公たちは自らに課したルールをひたすら守り、決して逸脱しようとしない。その不穏な程の窮屈さ、偏屈さ(それ故の可笑しさ)はヨルゴス・ランティモスしか作り得ない唯一無二の世界観ではないだろうか。