悪魔の吐きだめ

映画とかドラマとかのことを書いてます。

長い戦いを終えて〜「ゲーム・オブ・スローンズ」は一体何がスゴかったのか

ゲーム・オブ・スローンズ」が終わった。世界中が固唾をのんで見守り続けた玉座を巡る争いを描いた「TVドラマ」が終わったのだ。「アベンジャーズ」と並んで熱狂的なファンダム(熱心なファンで作り上げられた文化)を持つこのドラマシリーズは一体何が凄かったのか?前置きすると、僕自身決してコアなファンではないし、何なら一度シーズン1で挫折すらしている。そんなニワカウォッチャーの僕ですら結局ハマってしまった今作の面白さと、ファイナルシーズンの盛り上がりについて書きたいと思う。
※具体的なネタバレは避けているものの、これから観る予定で一切情報を入れたくない方は、以下Spoiler Alertってことでスルーいただきたい。

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まず、「ゲーム・オブ・スローンズ」(以下、GoT)が本国で放送を開始したのは2011年で、僕が観始めたのは日本で放送開始した2013年頃だったと思う。第1話から壮大な世界観に圧倒されつつも、話の本筋が掴めず休み休み進めてようやくシーズン1を観終えたあたりでそれ以降進めるのをやめてしまっていた。そこから何年もブランクが空いて再開したのはわりと最近になってからだ。
なぜ一度挫折したドラマを再開しようと思ったのか。それは気がつくと世の中のエンターテイメントにGoTが欠かせない存在になっていたからだった。ちょっと大袈裟かもしれないが、本当に世界的な熱狂が半端なく、TwitterにはキャラクターのMemeやGIFで溢れ、近年の映画やドラマを観ていても、そこかしこにGoTのネタが言及されまくる。気がつくと「ゲーム・オブ・スローンズ」は一種の“記号”と化していたのだ。エンターテイメントの裏にGoTが存在している様子は、アメリカ映画やドラマの背景に、キリスト教と聖書が強く根付いていることと似ていて、その状況を知らないままでやり過ごしていることに妙な焦りや孤立感を感じるようになったのだ。


このままでは置いてかれてしまうと今更ながら焦り、再び観始めていった中で、このドラマにハマりだしたキッカケとなったエピソードがシーズン3の第9話「The Rains of Castamere」だった。一言で言うとまさに“度肝を抜かれた”エピソードだった。信じて応援して追ってきていたキャラクターたちは見るも無惨に次々と殺され、無慈悲にも息子を目の前で亡くした母の絶叫で終わる(そしてその直後に母も殺される)。このエピソードが海外では既に“Red Wedding”として有名だと知ったのは後のことで、全く事前情報を知らずに通勤電車で観ていた僕は最寄りの駅に着いた後もホームで立ち尽くしてしまった。それは「絶望」というより「ここまでやるのか!」という興奮で呆然としてしまったからだった。このドラマはただモンじゃないぞ、とここから一気にハマりだした。


ただ、逆にいうとここまで来ないとハマらないのかと思われそうだが、これは人によってこのドラマの楽しみ方が異なるため何を目的でこのドラマを楽しむか、によって大きく個人差があるのだと思う。(僕にとってはこのようにドラマのセオリーをぶち壊してくれる面白さに気がついてからだった)
冒頭にも書いたが、僕同様に最初に放棄してしまう人は今作の掴み所が分からないため、という人が多い気がする。いや、ゴールは至極シンプルで「誰が七王国の王になるのか」というだけである。ではなぜここまで取っ付きにくくなるかと言えば、理由の一つに登場人物の多さがあるだろう。一つのエピソードの中で並行して各キャラクターのそれぞれのストーリーが進むため、最初のうちは、あれがこうなって、誰が誰と、と追うだけで頭が追いつかない。そしてそれ故にこのドラマが他のドラマと大きく異なるのは、ドラマ自体が複数の“サブプロット”で成り立っているという点だ。


先にも述べた、阿鼻叫喚の地獄エピソードとして悪名高い「The Rains of Castamere」の他にも、シーズン6第9話「Battle of the Bastards」などのここまでやるか(やれるのか)というテレビドラマのバジェットや演出面も含めて大きく水準を底上げしたエピソードは数あれど、言ってしまえばいずれも一(イチ)キャラクターを通して描いたサブプロットでしかないのだ。それぞれが一本のドラマとして十分成立するレベルのクオリティのサブプロットの集合体がこの「ゲーム・オブ・スローンズ」という大きなドラマを作り上げているのだと思う。


そう言った意味で捉えると、GoTが本領発揮するのは、そのサブプロット同士が「玉座」という一つの到達点に集約していく終盤にかけてだ。そのため、ファイナルシーズンが世界的な盛り上がりを見せたのも、単にドラマが終わるから、という意味合いだけではなかったと思われる。今までバラバラだった物語とキャラクターが一堂に会して、ゴールへと繋がっていく快感は、なるほど過去7年に渡ってサブプロットを描き続け、それを堪え忍んできたウォッチャーだけしか得られない「GoT」が作り上げた視聴体験だったと思う。


さて、そんな熱狂的に迎えられた最終シーズンだったが、蓋を開けてみると意外なことにファンから叩かれまくってしまった。終いにはファンによる作り直しを求める署名活動まで始まる程だった。確かに個人的にも展開に疑問も持つ点もいくつかあったが、何よりこのファイナルシーズンでようやくサブプロットではなく一つのドラマとして動き出した途端に、これまで保っていた今作のテンポが失速していったのは認めざるを得ないし、それが残念でもあった。ただ、ファイナルシーズンが失敗に終わったのかというと個人的は全くそんなことは無かったと思う。
なぜなら賛否を巻き起こした第5話「The Bells」で今作の作り手たちはさらなる挑戦に挑んでいたからだ。これまで主要人物たちが次々と殺され、それをTV越しに楽しんでいた視聴者を真正面からブン殴るようなエピソードだったのだ。罪なき人々の断末魔が響き渡る瞬間を目にした時、そこには「ドラマ」というフィクションの持ち得る“面白さ”は皆無だった。「ゲーム・オブ・スローンズ」が描いていたのは単なる“エンターテイメント”ではない、“戦争”である、とここで視聴者に突きつけた。本作のクリエイターたちはきっとGoTを「面白いTVドラマだったね!ちゃんちゃん!」で終わらせたくなかったのではないか。


最後まで視聴者に喧嘩を売り続け、賛否渦巻く中GoTは幕を閉じた。いずれにせよ、ネットで瞬く間に拡散される感想含めて、すごい時代にすごいドラマが終わったこと、これはこの先も語り継がれるイベントだったと思う。
ゲーム・オブ・スローンズ」が紹介される時、よく「映画並みのクオリティのTVドラマ」だったり、「一話に映画一本分の予算をかけている」など映画と比較されて語られることが多い。しかし、今作がここまで熱狂的な盛り上がりをみせたのは「映画」だったからではなく「TV」だったからだ。まるでスポーツ観戦するかのように、お茶の間やバーのTVを通して、世界中が同じ瞬間を目撃し、その感想がリアルタイムに拡散されることで、より熱狂的な一体感を生み出した。
最終話でのティリオンの言葉を借りれば、人々を繋げるのは、いつの時代も“物語”(TVドラマ)であることを「ゲーム・オブ・スローンズ」は証明したのだ。

「荒野にて」居場所を求める少年と馬の物語

アンドリュー・ヘイ監督の新作「荒野にて」が本当に素晴らしかった。

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監督のアンドリュー・ヘイについては、HBO製作のゲイドラマ「Looking」でその名を知った。今作ではマイノリティの疎外感だけでなく、そのコミュニティ内でもあるゲイ同士の微妙な距離感の違いによる孤独を細やかに描いており、いわゆる“マイノリティ”を描いたドラマとは一線を画したドラマとしての新しさにとても感動したのを覚えている。
その後に観たのがシャーロット・ランプリング主演の「さざなみ」だった。長年連れ添った老夫婦が些細な事件をきっかけに心が離れていく様子が描かれているのだが、関係が崩れていく様を丁寧に且つホラーな演出で構成しており、その手腕に驚かされた。

そして続く今作が「荒野にて」だ。原題は“Lean on Pete”、直訳すると“ピートに頼る”となるが、この“リーン・オン・ピート”とは主人公の少年が心を通わせる馬の名前だ。
15歳の少年チャーリーは父と二人暮らし。彼にとっては良い父親なのだが女に弱く、それが原因で大怪我を負った父親は入院することとなる。食べていく金もないチャーリーは、稼ぐために競馬場で働くことになり、そこで弱った競走馬の“リーン・オン・ピート”に出会う。

この映画で描かれるのは、無垢な少年が様々な人々と出会い“人生”を知る物語だ。
父の不在という現実から逃げ出したチャーリーは、競馬場で働くデルとボニーという二人の人物と出会う。二人ともかつては馬に愛情を持って接していたが、暮らしのために今はその心を失ってしまっている。勝てなくなった馬は殺処分するという決断もせざるを得ない。それを目の当たりにしたチャーリーは再び逃げだす。ピートを連れて。

オレゴン州ポートランドから叔母の住むアイオワ州を目指すという荒唐無稽な旅なのだが、その道中も決して彼はピートには跨ることはない。それは走ることができなくなり、疎まれる存在となったピートにチャーリーは自らを重ね合わせているからだ。居場所のない二人は歩き続けることを選ぶ。

ただ、自らの人生に居場所がないと感じているのは彼らだけではない。旅の途中で出会う人々も皆自らの人生に妥協しながら生きている様子がわかる。例えばチャーリーの出会う太った女は祖父から体型について嫌味を言われ続けている。「どうしてこの家を出ないの?」と聞くチャーリーに対し、彼女は「だって他に行く場所がないから」と答える。そうした人々と出会うことで誰もが自分の居場所を探しており、それに諦めてもいることをチャーリーは知ることとなる。

だが彼が知るのはそれだけではない。チャーリーを行く先々で待ち受けるのは厳しい現実だった。その過酷さに打ちひしがれて逃げ出してしまう。それが自分の行いのせいだと強く自らを責めてボロボロになりながらも彼は自分の居場所を求めて進んでいく。彼にはそうするしかないからだ。それはこの世界に(それがどんな形であっても)“居場所”を探し続ける人にとっては強く共感できる姿であるはずだ。

そんな彼が辿り着いたラストで流れるボニー・プリンス・ビリーの“The World Greatest”ではこのような歌詞が歌われる。

誰かが僕について尋ねたらその人を見つめてこう答えるよ

僕は高くそびえる山、僕は空に輝く星だ

やったよ、僕は世界で一番偉大になったんだ

窮地に陥ったとしても微かな希望がある

だって僕は世界一偉大になったと感じるから

この曲を背景に彼の見つめる眼差しの先にあるものは、きっと観る人によって違う捉え方ができるだろう。それはアンドリュー・ヘイが用意した、チャーリーと同じく人生を模索する僕らに対しての優しさであり、厳しさに違いない。

「After Life/アフター・ライフ」リッキー・ジャーヴェイスが描く人生の悲哀とアイロニー

まず、リッキー・ジャーヴェイスという名前を聞いて、かつてのゴールデングローブ賞の授賞式の司会を思い出す人も多いかもしれない。当時興行的にも失敗し評価もイマイチだったサスペンス映画「ツーリスト」がなんとコメディ部門にノミネートされてしまったことをキッカケに、当時の司会だったジャーヴェイスはこれをネタに言いたい放題。「授賞式に主役のジョニデとアンジーを呼びたいから無理矢理ノミネートした」云々から始まり、その当時にスキャンダルされていた「協会はスタジオから賄賂を貰っている」発言までタブーに踏み込むジョークを連発。その後もポール・マッカートニーからメル・ギブソンまでとにかく大御所相手にも誰もがタブーと思う話を怯みもせずにジョークにして飛ばしまくる。

そんな彼の作るドラマも一見すると尖った刃のように鋭い笑いを孕みながら、その裏では実は人生の悲哀を描いた物語だったりする。

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ジャーヴェイスを一躍有名にしたドラマといえば、盟友のスティーヴン・マーチャントと共に自ら監督脚本を務めた「The Office」だ。英国の小さな印刷会社に密着したドキュメンタリー風(モキュメンタリー)ドラマで、ジャーヴェイスはそこで部下から冷たくされる(でも本人は気がついていない)イタい上司デヴィッド・ブレントを演じていた。とにかくやる事なす事すべて空回り、空気を読まずにセクハラや人種差別バリバリのジョークを本人は面白いと思って連発するもスベりまくる。その一方で周りから疎まれる彼自身の孤独も描かれているためいつの間にか視聴者は共感してしまうのだ。

続く2作目のドラマ「エキストラ」では、ジャーヴェイスはタイトル通り、有名な映画俳優になることを夢見るエキストラ役に扮し、自分の思いとは裏腹にコメディ役者として売れてしまう人生の歯痒さを描いていた。

いずれの作品でも、予定調和にいかない人生とそれにどう折り合いをつけていくかということが物語の核となっていた。

そして、今回新作の「After Life/アフター・ライフ」である。主人公のトニーは妻を亡くしてから生きる意味を見失ってしまう。自暴自棄となった彼は、周囲の心配をよそに誰彼構わず毒を吐きまくる。誰が相手でも遠慮のない発言で周囲を困らせるそんな彼だったが、徐々に妻のいない人生(アフターライフ)に意味を見出そうと心を変えていく。

正直言えば、これまでのジャーヴェイスのドラマに比べるとキャラクターの描かれ方も話の展開も単純かつストレートで面白みに欠ける印象もある。ただ、ジャーヴェイス自身もカドが取れたというか、ため息ひとつする演技だけで哀愁を感じさせるし、誰を相手にしても毒を吐くトニーは、ステージ上で毒を吐きまくるジャーヴェイス自身の姿と重なる。でも実はその裏では、思い通りにいかない皮肉な人生に満ちているという対比に観ている側は心を打たれてしまう。

「喜劇と悲劇は紙一重」というけれど、まさにジャーヴェイスの描く作品はその言葉通りで、“可笑しい”から“哀しい”し、“哀しい”から“可笑しい”のだ。そしてそれが「人生」なんだと説く彼は“現代のシェイクスピア”なのかもしれない。

「マイ・ブックショップ」小さな書店と厳しい現実

大人になってから本を多く読むようになった。何かきっかけがあったわけでは無かったと思うけど今まで触れてこなかったジャンルも含めて読み漁りはじめた。それがきっかけで今も本屋、それこそ大型書店から小さい古本屋まで、見かけるとつい立ち寄ったりしている。そんな中で最近知ったのが「一箱古本市」というもので、そこでは個人がそれぞれ持ち寄ったダンボール一箱分程度の古本を売ることからこの名前がついている。ただ、他のフリーマーケット等と異なるのが、自分たちが持ち寄った本、つまり思い入れがあり他の人にも読んで欲しいと思う本を箱に詰めて持ち寄っている点である。だからその本を手に取って眺めていると、売り手の人たちが「この本はねココが面白いんだよ」などと言って楽しそうに話しかけてくる。一箱とは言え彼らにとってはそこが小さな“書店”であり、その店主であるのだ。

前置きが長くなったが、今作の「マイ・ブックショップ」を観ていてその“小さな書店”の持つ温かさを思い出した。

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エミリー・モーティマー演じる主人公のフローレンスは亡き夫との夢であった書店を小さな田舎町で開く決意をするところから映画は始まる。本を愛する彼女は店頭に本を並べながら、時にはその並べた本を手に取り読書に耽りながら店を作り上げていく描写がとても美しい。彼女がそっと本を手に取り、ふふふと目尻に皺を寄せて微笑む姿に、ああ本当にこの人は本が好きなんだな、と感じてしまう。

本を通して人々交流が深まる様子が描かれる点も今作の魅力で、フローレンスは家に引き篭もる老人(ビル・ナイ)に自分の知らない面白い本を届けて欲しいという依頼を受けて本(レイ・ブラッドベリの「華氏451」)を届けたり、アルバイトとして雇った(なのに読書嫌いな)少女クリスティーンに「本は好きじゃなくても構わないけど、この本だけは読んで欲しい」と「ジャマイカの烈風」を渡したり。そんな風に一冊の本を人に勧めて交流が深まっていくって素敵じゃないですか。

でもそんな本を通しての微笑ましいやり取りだけでこの映画は終わらない。本屋を営む彼女はそれを快く思わない町の住民から嫌がらせを受け始めるのだ。その主犯格とも言うべき富豪のガマート夫人を演じるのが、パトリシア・クラークソン。彼女はHBOのTVシリーズ「シャープ・オブジェクト」でも小さな田舎町の地主を憎々しげに演じていたがその嫌らしさは今作でも同様。フローレンスの書店を潰そうとあの手この手で攻撃してくる。

そして驚くのが、彼女の決断、迎える事の顛末のなんともビターな味わいである。それはラース・フォン・トリアーの「奇跡の海」とかなり近いものがある。同じ小さな港町が舞台という点が似ているのもあるのだが、それ以上に「奇跡の海」のベスと今作のフローレンスに同じ信念を持つ女性としての共通点を感じる。(もちろん「奇跡の海」の方が遥かにハードな内容であるのは確かだけど)

自分の行動が正しいと信じて貫き通すヒロインと、それを疎ましく目障りに思う周囲。その対比と彼女の決断に深く心が動かされる。そして、彼女が現実に負けてしまったとしても、それが何処かで実を結ぶラストがとても美しいのだ。

ちなみに今作を観た後、映画に出てきた本が読みたいと思って銀座の蔦屋書店に立ち寄った。丁度「マイ・ブックショップ」のフェアを開催していたこともあって、絶版となっている「ジャマイカの烈風」をそこで買えて満足した一方で、フローレンスがこのスターバックスが併設された巨大な店を訪れたらどんな気持ちになるだろうと思ったりもした。

ポール・フェイグが放つブラックなガールズコメディ「シンプル・フェイバー 」

アナ・ケンドリックブレイク・ライヴリー主演の「シンプル・フェイバー 」は、突然失踪したママ友をブロガーママが追ううちに驚きの真相が判明するというサスペンスミステリー。として謳われていたが、実際観てみるとこれがコメディだったから更に驚いた。

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それもそのはずで、監督はポール・フェイグ。「ブライズメイズ」でヒットを飛ばし、その後メリッサ・マッカーシーとコンビを組んだ「デンジャラス・バディ」、「SPY」や、全員女性キャストで挑んで話題となった「ゴーストバスターズ」などガールズコメディを得意とする監督だからだ。


フェイグ自身今作ではヒッチコック風のサスペンスを目指したらしく、失踪事件に迫るあたりはピリついた緊張感とフェイグらしくないセックスと血の臭いが充満している。かと思いきや後半のある瞬間からトンデモコメディへと転調。やっぱりポール・フェイグはこうでなくちゃ、となってしまうのだから可笑しい。

暮石の上でマティーニで乾杯するなど、周りにバレたらどうすんだ的なシーンもあるものの、ビジュアル優先として観れば最高にイカしていて、しかもその時点では映画は完全にコメディに成り代わってしまっているのだから演出として上手いなぁと唸ってしまう。


そしてすったんもんだあった末、エンドロールで流れるのがNo Small Childrenの歌う“Laisse Tomber Les Filles”。この曲の英語カバー“Chick Habit”がタランティーノの「デス・プルーフ」のエンドロールでも使われていたことを思い出す。あの作品も強烈な女子の“踵落とし”で終わっていたことを思うとなかなか粋な選曲である。


今回のキャスティングも良くて、アナ・ケンドリックはどことなく鼻に付く優等生キャラのイメージが強くて好きじゃなかったけど、その嫌味な持ち味が遺憾なく発揮されていた。対するブレイク・ライヴリーもスーツに身を纏い髑髏の杖をついて登場するなど全身でbit*hキャラを演じていて超カッコいい。恐らく演じていても楽しかっただろうなと思う。

脇役ではアンドリュー・ラネルズも黒一点でお笑い役に回っていて好印象。「GIRLS」の時もそうだったけど女子のドラマに華を添える存在として良い立ち位置である。リンダ・カーデリーニも「グリーンブック」の良妻役とは真逆のスカしたキャラでナイス。後から気がついたけど彼女実はポール・フェイグとは「フリークス学園」以来のタッグじゃないか。そういう意味でも今回の出演は感慨深い。


これは余談だけど、ジャン=マルク・ヴァレが監督したTVシリーズ「ビッグ・リトル・ライズ」も同じく主婦が主役のサスペンスメロドラマだったが、ヴァレの得意とするフラッシュバックやカットバックの演出を多用して単純なソープモノで終わらず、見応えあるソリッドでスタイリッシュなドラマになっていて素晴らしい出来だった。対して今作「シンプル・フェイバー」も似たテーマながらやはりポール・フェイグらしさが遺憾なく発揮されていて、当たり前だけど監督次第でこんなにもテイストは違うんだなぁと思ったり。フェイグが撮った「ビッグ・リトル・ライズ」、ヴァレが撮った「シンプル・フェイバー 」も面白いだろうなぁと考えてしまった。

「グリーンブック」ファレリー兄が描くフラットな“弱者”の物語

今年のアカデミー賞作品賞は「グリーンブック」が受賞した。世間の大方の予想では「ROMA」か「女王陛下のお気に入り」が有力視されていた中での今作の受賞はかなりサプライズでもあった。

それもそのはずで、監督は「メリーに首ったけ」や「愛しのローズマリー」など下ネタ満載のラブコメディを得意とするファレリー兄弟の兄ピーター・ファレリー監督作だから尚更のことである。

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物語の舞台は1960年代のアメリカ。まだ人種差別が強く残る時代に、ヴィゴ・モーテンセン演じる用心棒のトニーが、マハーシャラ・アリ演じる黒人ピアニストDr.シャーリーの全米ツアーの運転手として雇われ、道中2人はぶつかり合いながらも次第に友情を築いていくという物語。

ここだけ切り取れば、これまでのファレリー兄弟の作品にあった下ネタの要素やどぎついギャグも無く、単なる差別を描いた“良い話”で終わってしまいそうだけど、実際観てみると今までのファレリー兄弟作品の描かれている内容とさほど変わっていないことが分かる。それは彼らが映画で共通して描いているのは“弱者”の物語だからだ。

例えばジャック・ブラックが主演した「愛しのローズマリー」では、女性を外見でしか選ばない主人公が、心が綺麗な人の外見だけが綺麗に見えるような催眠術をかけられた影響で、体重100キロを超える巨体の女性と気がつかずに恋をしてしまうという話。物語の行き着く先は予想通り、「人は外見だけじゃない」という当たり前のことなんだけど、それを笑いを交えてストレートに、そしてフラットに描くことで最後には温かい気持ちになる。

今作も同様で説教臭く「差別は良くない」と伝えている映画ではなく、差別する悪い警察もいれば良い警察もいるし、理解のある人もいればそうでない人も平等にいる様子がフラットに描かれている。特にトニーの妻ドロレスのキャラクターはまさにそうで、修理に招き入れた黒人の作業員にも普通に接し、家路についた夫の道中を全て理解した上でDr.シャーリーにお礼を伝える。この映画自体ラストがそんな彼女の笑顔で終わらせていることが、まさにファレリー兄(弟)の今までと変わらないフラットな姿勢を感じる。

2018年 海外ドラマベスト10

2018年のドラマベスト10本について。

今年日本で初配信(放送)されたものに絞っています。

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第10位「Atypical(ユニークライフ)」シーズン2(Netflix

ベストエピソード ep.1 Juiced!

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自閉症を抱える主人公のサムとその家族を描いた今作。何よりもサムを演じるキア・ギルクライストの演技が本当に素晴らしい。彼の無垢ゆえの暴走を通して、実は誰もが普通ではない、普通でなくても良いんだ、ということを描いた普遍的なようでいて全く新しいホームドラマだ。

 

 

第9位「LOVE 」シーズン3(Netflix

ベストエピソード ep.11 Anniversary Party

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主演兼製作を務めるポール・ラストの実体験を元にしたガスとミッキーの恋愛事情も遂に大団円を迎えた。ようやく落ち着くかのように見えた2人だがまだまだ障害は多かった。ああこんなこと、こんな衝突あるよねと頷いてしまうからこそ、心から応援したくなる。そんな2人の間に流れるGenerationalsの“When They Fight, They Fight”、そしてWilcoの“You and I”。このドラマは世界中の“ガスとミッキー”への応援歌でもあるのだ。

 


第8位「アトランタ」シーズン2(FX)

ベストエピソード ep.10 FUBU

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このシーズンを一言で言えば「ドン詰まり」である。うだつが上がらない主人公アーンの日常は前シーズンからさらに悲惨なものとなる。それは人種や文化を超えて、閉ざされた土地と自分の能力に限界を感じたミレニアム世代の悩みである。“Robbin’ Season”(略奪の季節)と副題の付いた今作で毎回何かを奪い奪われる主人公たちの姿は可笑しくもあり鏡でもある。

 

 

第7位「American Vandal(アメリカを荒らす者たち)」 シーズン2(Netflix

ベストエピソード ep.8 The Dump

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バカバカしい事件を大真面目に推理をしていくギャグは前シーズン同様なものの、それが最終的には最も無防備な時代を生きる世代への警告とメッセージに繋がっていく様が凄い。とは言え上辺で楽しそうに振る舞いながら、お互いに陰口を叩き合う高校生活を垣間見る事ができるのがこのドラマの醍醐味。

 

 

第6位「バリー」シーズン1(HBO)

ベストエピソード ep.7 Chapter Seven: Loud, Fast, and Keep Going

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話が進むにつれてどんどん陰惨になりながらも笑いが尖っていく絶妙なバランスが楽しい「デクスター」以降の新しいダークコメディ。主演兼ショウランナーを務めるビル・ヘイダーSNLのスキットでの陽キャライメージのある一方で、「スケルトン・ツインズ」でも見せた暗さを兼ね備えており、その二極の顔が今作でも遺憾無く発揮されていた。話運びの巧さは共同ショーランナーのアレック・バーグの力かもしれないが。とはいえ「シリコン~」とは似て非なるドラマであるのも確か。

 

 

第5位「シリコンバレー」シーズン5(HBO)

ベストエピソード ep.8 Fifty-One Percent

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シリコンバレーで奮闘するパイドパイパーの面々の悲喜交々の物語も5年目を迎え、遂にレギュラーメンバー、アーリックを演じるT.J.ミラーが前シーズンを最後に番組を去ってしまった。唯一ピン芸人的な立ち回りでドラマを掻き回してきた彼の不在はかなり心配だったが全くの杞憂。買収により事業を大きくしていくにつれて混沌としていくパイドパイパー社が直面するトラブルが各話で描かれるのだが、最終話ではその伏線が一気に集約されて怒涛の展開に。1%を巡ってバカバカしくも手に汗握る攻防戦を繰り広げ、今作だからこそできる“爆笑できるサスペンス”という離れ業をバシッとキメた。まだまだ「シリコンバレー」で展開する戦いからは目が離せない。

 

 

第4位「ベター・コール・ソウル」シーズン4(AMC / Netflix

ベストエピソード ep.9 Wiedersehen

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もはや“ブレイキング・バッドのスピンオフ”という枕詞も必要ない独自の道を歩み始めた今作。特筆すべきは第9話のヴィンス・ギリガン監督回。正直シーズン中盤が時間稼ぎのような話もあり若干ダレ気味だった印象も否めないのだが、その過程、過去のシーズンの積み重ねを昇華するジミーとキムの衝突が凄まじい。ジミー(ソウル)にとっての“法とは?”、つまりは“善悪どちら側の人間なのか?”問いかけるシリーズでも最高傑作エピソードだ。そして、「ブレイキング・バッド」で築き上げたあらゆる要素を昇華し、遂に迎える“ソウル・グッドマン”の誕生に視聴者は喜びと共に絶望を味わうのだ。

 

 

第3位「マニアック」(Netflix

ベストエピソード ep.10 Option C

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キャリー・ジョージ・フクナガのNetflixオリジナルシリーズは「犬ヶ島」の世界で繰り広げる「エターナル・サンシャイン」。夢の中でキャラクターとともに、コメディからサスペンスまでジャンルを変わるため、一見するとヘンテコドラマとも思えるが、実はその中身は心に病を抱えたり、社会で生き辛さを感じる人への鎮魂歌。ラストの2人が向かう先、その姿に涙が止まらなかった。ジョナ・ヒルエマ・ストーンという「スーパーバッド」以来の2人の共演もファンには嬉しかった。

 

 

第2位「The End of the F***ing World(このサイテーな世界の終わり)」(Channel 4 / Netflix

ベストエピソード ep.8 Episode #1.8 

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自分をサイコパスだと思い込む少年と、人生にウンザリする少女の退廃的でピュアな2人の逃避行劇。些細な家出をきっかけに、いつしか取り返しのつかない状況に陥る脚本のグルーヴ感は「フォーゴ」や「ブレイキング・バッド」の影響と思われるが、何より魅力は主人公2人の瑞々しさと青臭さ。きっと彼らと同年代の頃にこのドラマを見ていたらエモさと憧れで死んでしまっていただろう。出口の見えない闇の中を突っ走る2人の姿は「ボニー&クライド」でもあり「卒業」のよう。つまりはこのドラマはサイテーな現代に生まれた“僕たちの”アメリカンニューシネマなのだ。

 

 

第1位「Sharp Objects(KIZU -傷-)」(HBO)

ベストエピソード ep.8 Milk

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前作「ビッグ・リトル・ライズ」に続いてジャン=マルク・ヴァレが描くファミリードラマは、エイミー・アダムス演じる主人公が自らの肌を切り刻むが如く細かくサンプリングされた記憶のカットと音楽の断片が視聴者の脳にこびり付いてトラウマを追体験させる。前作「ビッグ~」でも印象的だった得意とするカットバック演出は「Wild」や「Demolition」のようにソリッドなトラウマを描く際の方が上手くはまっている。タイトルの“Objects”が意味する劇中に散りばめられた見過ごしてしまうほどキーワードの数々、背後に流れる音楽の曲名や歌詞も含めて徹底して作り込まれた2018年ナンバーワンのウットリするような“悪夢”だった。

 

 

他に今年優れていたドラマは「ザ・ホーンティング・オブ・ヒルハウス」、「フォーエバー」、「ロッジ49」など。