悪魔の吐きだめ

映画とかドラマとかのことを書いてます。

天才になるために 『セッション』

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【若干ネタバレあり】

『セッション』は本当に衝撃的だった。観た後は、周りの人たちが全て凡人に見えるぐらい打ちのめされた。観た人なら分かるかもしれないが凡人を否定するような映画であるからだ。


アメリカの有名な音楽大学に入学した主人公ニーマンは、そこで指揮する有名なフレッチャー率いる楽団に引き抜かれ有頂天となる。かねてから思いを寄せていた女の子への告白も成功し、順風満帆な生活になるかと思えた。しかし、鬼教師フレッチャーの容赦ないプレッシャーが彼を変える。テンポが少しでも遅れれば椅子を投げ、顔を殴り、親を馬鹿にする。完璧を求めるフレッチャーに認められるため、「天才的なドラマー」になるために、ニーマンはドラムに狂ったように取り憑かれていく。
ここまで彼を突き動かしているのは、ドラムを愛する気持ちではなく、コンプレックスとエゴである。顔もさえないし、友達もいない。夜は父親と一緒に映画を観に行く以外楽しみがない。そんな自分を確立できるのは「自分は他人とは違う」というエゴである。自分が「天才」でなければ彼らに勝てる物は何も無い。「天才」であることが何より大事なのだ。主奏者に選ばれるのも、プロへのスカウトも、その副産物に過ぎない。だからこそ、食事会で自分の音楽よりもスポーツができることを褒められる従兄弟たちを罵倒したし、主奏者のライバルとして途中入団したコノリーを目の敵にした。「天才」になるために、目的もなく大学に通う凡人な彼女と別れ、一人暮らしの親バカの父親を切り捨て、死に物狂いで練習をする。
宣伝でも取り立たされている最後の演奏は、彼の払った犠牲が全て昇華される圧巻のシーンである。
セリフは無く、音楽と視線で全てが語られる。彼の演奏が「完璧」になるにつれ、フレッチャーの目は「信頼」に変わり、父親の目は「恐怖」に変わる。彼はすべてを捨て「天才」となる。
 
パンフレットに斎藤工が解説文を載せており、そこに「この映画で描かれているドラムは、他にも言い当てられる誰しも感じる壁だ(大意)」などと書かれていたがこの意見には反対である。これはドラムを通して「天才になる」話であって、それ以外何ものでもない。そういう解釈こそ無意味に感じるほど徹底的に削ぎ落とされた脚本、演出を前に観客は俯瞰せざるを得ない。それは我々はただの凡人に過ぎないからだ。